未科学と言う逃げ場所

オカルト懐疑論者、オカルトに否定的な科学者達と、オカルト信奉者達との間で行われるオカルト()討論の中で懐疑論者達からの否定に対してオカルト信奉者側が「未科学」と言う言葉を用いて反論を試みようとする事があります。今回はこの討論と言う場に於いてオカルト陣営から飛び出して来る(恐らくは彼らの奥の手なのであろう)「未科学」と言う言葉について思うところを書いていきます。

( ここで言う「オカルト」は日本人が怪しげなものを一纏めにして言う時に用いる「オカルト」の事です。)

討論の場に於いてオカルト陣営がどのような真意を以て「未科学」と言う言葉を持ち出して来るのかはよく分からないのですが、彼らが「未科学」と言う言葉を用いて…「そのオカルト的な内容は未だ科学で解明されていないだけの事、(解明も出来ない)貴方達に否定される謂れはない」「今の貴方達には手の届かないところあるものなのだから口を出して来るな」と言うような主張を行うところから見ると、恐らく、オカルト陣営は「未科学」と言う言葉で「オカルト」を包む事により「懐疑論者達を無力化出来るのではないか」、そしてそれを出せば…「自分達を相手の攻撃(科学の攻撃)の届かない安全地帯へと上手に逃げ込ませる事が出来る(はず)」「何かとうるさい懐疑論者や否定的な科学者達を黙らせる事が出来る(はず)」…と思っているのではないでしょうか。ですが、このような形でオカルト陣営側から持ち出される「未科学」と言う言葉は、懐疑論者達に対する反論としては勿論の事、言い逃れにすら全くなっていない場合が殆どのように思われます。

オカルト陣営の用いる「未科学」には、その前提として、「自分達の言っている事は自然科学の対象にはなり得る…(が単に未解明なだけ)」と言う意味が含まれているのですが、この「自然科学の対象にはなり得る…」と言う部分がそもそもオカルト陣営の勝手な言い分にしか過ぎないと言えます。自然科学がその対象を選ぶものであるとするならば、オカルト陣営の言うオカルト的な内容が「自然科学の対象」となり得ないものである可能性も十分に考えられます。そのため、もし、オカルト陣営が「未科学」と言う言葉を用いたいのであれば、(科学の未発達さのせいにする前に、)先ずオカルト陣営の主張するオカルト的な内容が本当に「自然科学の対象」となり得るものなのか如何かをはっきりさせる必要が出て来ます。オカルト陣営は何故それが「自然科学の対象になり得る」と言えるのか、その論拠を示すべきですし、そして、もし、「今は自然科学の対象ではないが、何時かは必ず自然科学の対象になるはずだ」と言うのであれば何故そうだと言えるのか、その論拠を示すべき…と言う事になります。それすら現段階では無理な事だと言うのであれば(例え、そのオカルト的な内容が本当に「いずれ未科学」「いずれ科学」になるものであったとしても)、「未科学」であるか如何かもはっきりしないものを捕まえて「未科学」と言う言葉を軽々しく、そして尤もらしく用いるような事は、特に討論のような場に於いては、避けるべきなのではないかと思います。「科学と言うものの性質を逆手に取って単なる言葉遊びをしているだけ」…などと言われ兼ねませんので…。

もし、オカルト陣営の言うオカルト的な内容が彼らが言うように自然科学の対象に十分なり得るものであって、現在は単に「未科学」なだけであったとするならば、科学を物差しとしている人達からの否定的な攻撃に対し、「誰にも(科学的には)間違いだと言い切れない!」と言うところへと話を持ち込む事は出来るかも知れません。勿論、その反面、「未科学」であるが故に「誰にも(科学的に)正しいとは言い切れない」と言う事にもなり、自分達の主張する事(オカルト的な内容)の「正しさ」を(科学を物差しとしている)相手に認めさせる事は(科学の発展を待つと言う事で)その時点では放棄すると言う形になるだろうと思います…。しかし、中にはこの「未科学」と言う灰色の言葉を用いて「未科学なだけであって、自分達は(根拠はないが兎に角)間違ってなどいない」「科学で証明されるようになれば自分達の言っている事(オカルト的な内容)の正しさがわかるはず」…と言ったように科学の一歩先を行く(?)大きな主張を行って来るオカルト信奉者達もいるようです。これは科学的な判断の届かないところに自分達を囲っておいてその上での言いたい放題と言うと言う訳ですが、当然、このような主張は相手(特に論理的な思考が優位にある人間)を納得させるものにはなり得ません。オカルト信奉者達の言うオカルト的な内容が「未科学」、即ち、「自然科学」の対象となり得るものであり、科学の発展、発達によって何時しか解明されるものであったとしても、それがオカルト陣営の主張している(望んでいる)ところへと着地する保証は何処にもないからです。科学で解明された事により逆に彼らの主張が(科学的に)完全に否定されて仕舞うと言う可能性も考えられます()。「未科学だけどそれ(自分達の言っている事)は正しい」と主張するところの「正しい」は、単にオカルト陣営がそう感じている(そう望んでいる)だけの事でしかないと思われても仕方のない事のように思えます。

( その場合、オカルト陣営は部分的に譲る事はあるかも知れませんが全面降伏するような事はないと思います。恐らく、未解明の新たなオカルト要素を編み出しては付け足して行って生き長らえようとするのではないかと…(推測です)。それもただ自分達の居心地の良い場所を守るために…。オカルト信奉者を見ていると何となくですがそのような気がします…(勿論、偏見です)。)

オカルト陣営は「未科学」だ「何時か証明される時が来る」などと言っておきながら、科学の目に脅え、本当は永久に解明されない事を願っているのかも知れません…。そして、そのように科学による否定を極端に恐れている半面で、科学の(自然科学を物差しとして用いている人達が漠然と感じている)「正しさ」の恩恵に与ろうとする都合の良い態度が、彼ら側から持ち出して来る「未科学」と言う言葉に現れているのではないかと…思います。彼らに必要なのは飽く迄も自分達にとって「都合の良いもの」(討論の場では「都合の良い言葉」)だけであり、(討論と言う場に於いては)それが…「科学」でも「非科学」でもなく…「未科学」であったのでしょう…。

…「未科学」云々からは話が逸れて仕舞うのですが、そもそもこの手の討論は始める前から破綻している場合が多いように思えます。多くのオカルト信奉者は「相手を納得させる事は出来ないが、自分達は既に熱烈に納得している」と言う状態…即ち、議論、討論を行うに当たっては非常に厄介としか言えない状態にあります。一方の懐疑論者や否定的な科学者は、オカルト信奉者の言う事に正面から向き合おうとしなかったり、科学的に否定しきれないところを突かれると…「馬鹿げている」「そんな事はあるはずがない」「非科学的だ」…と、ただ相手を強く否定するだけになってしまったりする人も一部には見受けられます(※※)(勿論、最後まで科学的な態度を貫いてオカルトと向かい合おうとする懐疑論者、科学者もいるのですが…)。個人的には双方がこのような状態にある限りは討論がまともに成立するとは到底思えません。そもそも最初からお互いの事を見ようともせずにただ自分達の言いたい事をいおうとするだけの人達が、何故、討論と言う「お互いが話し合い議論を行う場」に就く気になるのかが良くわかりません…。ただ科学と言う自分達の「正しさ」を振るって相手を罵倒しているようにしか見えない(一部の)懐疑論者…。「正しいと思っているだけの心」と「都合の良いようにしか物事を捉えようとしない脳」と「都合の良いものだけを見たがり、聞きたがり、都合の悪いものを見ようとも聞こうともしない目と耳」と、そして「科学の目から逃れるためだけの術(言葉)」しか持たないため最終的には(討論によって自分達の「正しさ」を相手に認めさせようとするのではなく、)科学の未発達さを攻めるなどして自分達と自分達の主張が「インチキ」呼ばわりされる事を避けるためだけに必死になる(そう見える)オカルト信奉者…。せめて始める前にまともに(極普通に)討論の出来る状態を双方共に作って来て欲しいものです。特に懐疑論者、科学者の場合は相手がこちらを見ていないからと言ってそれに付き合って自分達も相手を見ないと言うのではいけません。相手が如何であろうときちんと向かい合おうとする態度を持って討論に臨むべきだと思います。お互いの顔を見ずに背け合いながら行う話し合いが無益なものになり易いと言う事を知らない訳ではないのでしょうから。

(※※ オカルト信奉者が聞く耳を持たずに自分達の言いたい事だけを好き勝手に言っている態度を見て感情的になるのもわかりますが…否定に至るまでの過程を全て飛ばして結論だけを述べるのは如何かと思います。例え「非科学的だ」の結論に行き着くまでの論理的な過程をきちんと持っていたとしてもそれを示さないのであれば(表面的には)オカルト信奉者が主張を行う態度と然程変わりのないものになって仕舞います…。懐疑論者、科学者は、相手が聞く耳を全く持っていないとしても、何らかの結論を述べるからには論理の飛躍が起きていない事を(この場合であれば「何故に非科学的だと言えるのか」を)きちんと見せる(示す)必要があると思います。)

序で。オカルト討論の中で気になった事があったので序でにもう一つ…。オカルト信奉者が自分達の言っている事(オカルト的な内容)の「正しさ」を声高に主張すると、一方の懐疑論者が「では、貴方達の言っている事を証明してください」と言うような事を言い、それに対してオカルト陣営が「それは貴方(懐疑論者、科学者)達が証明すべきものでしょう」、或は「これは(証明は出来ないが)事実なので(私達は証明などしなくても既にそれが正しいと言う事を知っているので)証明の必要はない」と答える…と言ったようなお決まりとも言える展開があります。ですが、ここでもオカルト信奉者は討論と言う場からの逃避を行っていように感じられます。この場合、本来であれば自分達の言う事(オカルト的な内容)が「存在する」「正しい」と言っているオカルト陣営が「ある」を立証して「ない」を打ち消さなければならないのではないかと思われるためです。そして、もし、正しいと言っているオカルト陣営がそれを証明出来ないのであれば(若しくは立証責任自体を最初から完全に放棄しているのであれば)、他者から否定される覚悟くらいは予め持っておくべきなのではないかと思います。しかし彼らはそれすら嫌う傾向にあり、全て相手のせいにして仕舞うところがあるように見えます。(「未科学」もその一つ。「未科学なのだから(我々を攻める前に)貴方達が頑張って早く解明して下さいよ…」と。)証拠データを持ち出して来て懐疑論者に対抗しようとする人もいますが、そう言った場合も自分達に都合の良いデータばかりを並べ立てているのが殆どのように見えますし…。「立証責任は持ち合わせていない。」「主張(だけ)は思う存分する。」「否定されるのは嫌い。」「都合の悪い話やデータは嫌い。都合の良い話やデータだけを取り入れる。」では…討論が無駄に終わるはずです。

纏め。何を信仰するのもそれぞれの人の自由なところだとは思うのですが、オカルト信奉者はその自分達の信仰している(現実や理屈を超えて信じている)ものを同胞以外の他者に、それも選りにも選って疑い深い懐疑論者や現実の現象を取り扱う科学者達に対して「現実的に存在する、ある」と(何の確固たる証拠も出さずに)主張するのですから…対立もすると言う訳です。自分達が勝手に(「現実的に存在する、ある」と)信じているだけであれば問題ないとは思うのですが…彼らは自分達が信じている「現実的な正しさ」を他者に主張せずにはいられないのでしょうか…。

カウンター
^