魔術の基礎理論

ここでは魔術の基礎的な理論()について考えて行きたいと思います。

( 理論とは言ってもそのような大層なものではなく、殆どの場合は単なる解釈の仕方に過ぎませんが…。)

― 魔術の理論面を学ぶ際の注意 ―

個人的には魔術師は常に理論的な基盤を持って活動を行うべきものであると考えます。そこで初期の段階(何の経験も体験も持たない初心者の段階)では他者の理論を積極的に学び、そこでそれを得るのが良いかと思います。

しかし、他者の考えに学ぶ際には注意しなければいけない点もあります。それは、他者の考え方をそのまま鵜呑みにしたり、盲目的に凭れ掛かったり、何時までもしがみついていたりするような事がないようにと言う事です。(以降で扱っている内容についても同様です基本的に魔術師は盲目であってはいけません。)

そもそも、魔術の理論は人それぞれのところが往々にあるものであり、絶対的に正しいと言える理論が存在している訳ではありません()。何より、魔術師にとって一番必要なのは絶対的に正しい理論を見付ける事ではなく、自分にとって十分に信頼する事の出来る理論を手に入れる事なのではないかと思います。そして、その信頼出来る理論とは自らの経験や体験に基づき、自らの成長と共に自らが築き上げて行かなければいけないものであると思います。確かに先人達の知恵と経験との積み重ねによって確立された魔術理論は学び始めの人間にとってはある程度安心して扱う事の出来る有用なものではあります。ですが、他者の魔術理論は、それがどのように優れたものであっても、自らが信頼出来る理論的基盤を作るための出発点でしかなく、初期の段階に於いて他者の理論に学び作って行く(事になるだろう)それなりの基盤(一次的基盤)も、自らの堅固な基盤を築くまでの過程に於ける取り敢えずの安全性を確保するための仮の基盤(これも初期の段階ではとても大切なのですが)でしかないのです。

( それが科学的な証明の難しい類のものであると言う事もあるかとは思いますが、多くの場合は「自分は魔術をこう考える」と言う、謂わば1つの解釈方法であり、個々によって観点が違っていたり、重みを置く論点が違っていたりするので、魔術の理論については違いがある方が当然であると言えます。ですが、それぞれの人のそれぞれの理論が、それぞれの活動を行う上ではきちんと役目を果たしている事から、絶対的なものがなくても実用上は問題ないと言えます。)

纏め ― 。魔術師は、例えそれが暫定的、流動的なものであったとしても、常に何らかの魔術の理論基盤を持って作業に取り組む事を心掛けなければならないと思います。魔術師は自分の行なっている事を全く把握出来ないと言う事があってはいけません。そのために初期の段階では他者の理論を学ぶと言う事はとても重要であると思われます。それらを仮の基盤に置いて最終的には自分の堅固な基盤を築く事を目標としましょう。他者の考えに学び、自分なりに作り上げた魔術理論が結果として自分を裏切らない程の(精度の高められた)ものであれば、他者の理論と違っていたとしても一向に構わないのではないかと思います。

― 魔術とは何か ―

「魔術とは何か」について、即ち、魔術の定義について言うと、これは、一言で言って仕舞うと決まった答えと呼べるようなものはないと言えます。

例えば、魔術師と一般(※1)の人々では魔術に対する認識が明らかに違うものと思われます。一般の人々の中には幻想をそのまま持ち込んで来る人もいるでしょうし、魔術に対して無知なままで全くの否定的立場をとる人もいる事でしょう。更に、同じ魔術師同士の間であっても定義する範囲の大小であったり、その者の魔術による目的であったり、何に重点を置いているかなどによっても違って来ます。また、時代背景や宗教的事情(※2)によっても大きく変わって来るものでもあると言えます。

(※1 「魔術とは何か」と問えば、「箒に乗って空を飛ぶ…」「呪文を唱えて変身する…」「死んだ人を生き返らせる…」「海を左右に切り裂く…」などと答える人もいるでしょうし、(個人的にはこう言った答え(答え自体)を否定する積りはありません。それが魔術であっても別に構わないと思います。勿論、科学であっても構いません。)また、「全くの絵空事、戯言」などと答える人もいるかと思います。)

(※2ある時には「神が自然の中に隠した力を操作する術」であり、ある時には「悪魔の力を借りて行う術」などとなります。)

言って仕舞えば、魔術の定義は人や時代によって様々であると言う事なのですが、ここではその中から我々が取り敢えず必要としているであろう「現代魔術師」による「(魔術師の中での)一般的な魔術の定義」(先述の通り、現代魔術師であっても魔術に対する定義はそれぞれに主張するところがあるのですが、その中でも一般的であるとして用いても差し支えのないと思われる定義、模範として扱われる事の多く見られる定義)についてを見て行きたいと思います。

勿論、古今東西の人々の言う魔術を全て一纏めにして扱う事も考えられます。例えば、一般的な人々の言う魔術を無理に纏めるとするならば、即ち、強いて共通する点を見付け出すとすれば、魔術は「人間が不思議な力で不思議な現象を起こす事」と定義出来るのかも知れません。しかし、このような定義は余りにも大雑把過ぎますし、魔術の実践を前提としたものとしては実用的とは言えません。また、人間の理解出来る範疇にあるかないかと言う事だけで魔術を定義しているため、(現代に於ける一般的な人々の多くが不思議か不思議でないかの基準を科学で説明が付くか付かないかに置いているものとして)暗黙の内に「科学で分からないものが魔術である」と言う図式を作り出して仕舞っています。そうなると、「不思議な」の部分が科学的に解明された時には、即ち、人間の理解を超えたところから人間の扱える範囲へと魔術を置く事が出来た時には、一般的な人々から見れば魔術と呼ばれているものは(不思議ではなくなるため)魔術ではなくなり、解決済みのものとして科学の中の片隅へと収められる事になります。これでは科学の光の当たっていない残り物が魔術であると言っているようなものです。もし、科学が世の全て(自然・世界・宇宙)を照らす事の出来る光であるならば(実際には対象と出来るものと出来ないものとがあるのですが、対象となる範囲に魔術があるとして、そうであれば)、魔術(魔術の仕組み)も科学によって完全に解明されるものと思われますが、科学によって解明された事により(例えそれが言葉の上での事あっても)魔術がこの世から消え去って仕舞うような定義を魔術に持たせるような事は魔術師としては行う訳には行きません。魔術師に必要なのは実用的であり、しかも、科学が魔術を解き明かした後でもそれに関係なく「これが魔術である」と言う事の出来る定義です。そのためこのような一般的な人々の幻想に付き合った形の定義はここでは相応しくないものであると言えるでしょう(「NOTE」参照)。

さて、ここでは扱う範囲を我々にとって最も重要であると考えられる現代の魔術師に絞った訳ですが…では、その現代魔術師は「魔術とは何か」に対してどのような答えを用意しているのでしょう。下にそれを簡潔に表わしているとして良く用いられる2つの有名な言葉を挙げてみたいと思います。

・「魔術(Magick)とは意志に従って変化を起こす科学であり技術(業)である。(Magick is the Science and Art of causing change to occur in conformity with Will.)」(アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley))

・「魔術とは意志において意識を変える技術である。(Magic is the art of changing consciousness at will.)」(ダイアン・フォーチュン(Dion Fortune))

見飽きた聞き飽きたと言う人も多い事かと思いますが、1つ目の言葉はクロウリーのものであり、これでは意志に一致した変化を起こすための体系(学問)と技術(業、作業)とを「魔術」と呼んでいます(個人的にはクロウリーが用いる意志よりもその幅を広げた上で [ Magik ] を [ Magic ] にして使いたいところです)。2つ目の言葉はフォーチュンのものであり、思うままに意識を変化させる(思うままに内的変化を引き起こす)技術の事を「魔術」と呼んでいます。他にも様々な人達が様々な言葉によって「魔術」を語っているのですが、中でもこの2つは現代の魔術について非常に上手く表わしている言葉であると思われます。

この2つに共通して用いられている言葉は「Art(art)(技術、業)」「change(changing)(変化)」「Will(will)(意志)」の3つです。この事から「魔術」とは、最初に「意志()」があって、それに一致した「変化」を起こす「技術(業)」の事を指していると言えるかと思います。

( 魔術に於ける「意志(Will)」には「真の意志(True Will)」と呼ばれるものがあります。これは様々な言葉で表されますが耳慣れた言葉を使えば、「高次の自己(Higher Self)」や「聖なる守護天使(Holy Guardian Angel)」、ユング心理学に於ける「セルフ(自己)(Self)」と言ったようなところになります。(人によっては何らかの主張したいところがあってそれぞれに違いを持たせている場合もあります。特にクロウリーは(結局は彼自身の「聖なる守護天使」と見做す事になる)「Aiwass(Aiwaz)」を全く別の特別なものとして扱っていました。)これらは自らのあるべき姿を示す存在であると言え、自己実現、自分そのものになる道を知るもの(者)です。)

纏め ― 。「魔術とは何か」についての現代的一般的回答は…「意志」に一致した「変化」を(内的、或は外的に)起こす「技術(業)」である…と言えるでしょう。ですが、クロウリーが言ったから、フォーチュンが言ったから魔術とはこうであるなどとは思わない方が良いかと思います。クロウリー、フォーチュン、その他の人が行った魔術の定義も全ては自分は魔術をこう定義すると言うものでしかありません。勿論、自分なりの「魔術」の定義があったとしても良いのではないかと思います。

― 魔術はどのようにして作用するのか ―

ここでは「魔術」を心的変化を扱った技術とした上で魔術がどのように作用するのか(どのようにして心的変化を引き起こすのか)と言う事について余り難しい事には触れないようにしながら簡単に見て行きたいと思います。

先ずは一般的な観点からですが…「(儀式、儀礼、典礼)魔術」では基本的にはセットと象徴とを使って心に働き掛けていると言えます。セットは術者を日常から切り離し、心を特殊な状態へと誘う働きがあります。心を変化させ易くする前準備のようなものであると言えるでしょう(準備段階の意味があるか如何か分からない多大な苦労や、材料、道具、場の雰囲気などに見られるおどろおどろしさ、無意味な語を羅列した呪文、長々とした儀式内容など、古い魔術書にあるようなそれら(現代魔術師には必要ないそれら)もセットの一部だと言えます)。一方、象徴(物質的象徴物(聖別された魔術武器(※1))、強く視覚化されたイメージ(※2)、象徴的な行為行動など)は心(無意識)を操作するための(即ち、心的な変化を引き起こすための)直接的な鍵であると言えます。術者は、セットの中に身を置き、この象徴を用いる事によって心の内側(心的内容、心的エネルギー)の操作を試みる事になります。象徴(象徴操作)によって心の操作が行えるのは、それが集合的無意識の内容と照応関係にあるためです。「魔術」に於ける象徴とは(その象徴に照応した)心的内容の投影対象に他なりません。(単純化して大雑把に言えばですが…)術者は象徴に対して(照応する)無意識の内容を(無意識の内に)投影しているため、それ(心的内容の代表)を操作する事により自身の心を操作する事が出来ると言う訳です。象徴と心(無意識)の繫がりを利用して心に働き掛けて操作するこの作業こそが「魔術(意識を変化させる)」の作業の中枢であると言えます。(錬金術作業と心の変容との間にある関係に酷似していると言えるかと思います。あれはあれで独自解釈が過ぎていると思うところはありますが…。)

(※1 聖別された(即ち、既に心的内容と繫がれた)魔術武器は魔術的象徴物であると同時にセットの一部でもあります。それは魔術武器が聖別によって日常と切り離され、(更に言えば他の目的とも切り離され、)魔術(の中での目的)に捧げられているためです。)

(※2 能動的想像力、視覚化の技術によって生み出されたイメージは心的内容とに結び付けられた、言わば生ける象徴であって、象徴物として(聖別された)物質的象徴物と同じ様に働くものです。この視覚化されたイメージは物質的に足りない側面を全て補う事が出来ます。そのため、物質的な象徴物(魔術武器)を一切用いずに視覚化されたイメージだけで魔術を行なう事も可能であると言えます。また、能動的想像力は自らがセットの中にいる状態と同じ状態を(実際にはセットの中にいない)術者の中に引き起こす事も出来ます。そのため術者は能動的想像力さえあれば必ずしも物質的魔術的空間に身を置く必要はないと言えます。言って仕舞えば…術者は能動的想像力によって何時何処であってもセットの中に身を置いているのと同じ状態になれ、更に魔術的象徴制御を行い魔術を実行する事が出来る…と言う事です。)

次に、カバラ思想に基づいて魔術を考えて見ます。カバラ的観点では、術者が物質界から形成界(アストラル領域)へと昇り、その領域で何らかの影響を(想像力と意志力とを以て)確立する作業が魔術であり、この形成界に打ち立てた影響が流出の概念によって下位の世界へと降りて来たものが魔術の作用であると言う事になります。「生命の樹(セフィロト)」を使って考えると、「マルクト」から「イェソド」の領域へと昇り、更には「ホド」の領域へと行き、「ホド」に於いて形を形成して、その形にそれに照応する「ネツァク」の力を呼び込み、封じ込め、それ(即ち、「ホド」の形と「ネツァク」の力とが結び付いたもの)を使って「イェソド」の領域に影響を確立させる事、それが魔術(但し、下位の魔術的作業の場に於ける魔術)であり、「マルクト」への流出が魔術の作用(「イェソド」からの波及による効果)であると言えます。これは別の言葉を使って書くと…無意識の領域(「イェソド」)に影響を打ち立てるのが魔術であり、意識(「マルクト」)へと昇って来る無意識からの波が魔術の作用であると言う事になります。そして、「ホド」の形に「ネツァク」の力を呼び込む作業は視覚化作業(作り出した像に心的内容を吹き込む作業、像に命を吹き込む作業)と変わりがないと言っても差し支えのないものであり、「ホド」の形に「ネツァク」の力が定着したものは視覚化イメージ(像と心的内容とが結び付いたもの、生きた象徴)であると言えます。また、聖別された物質的象徴物は「ホド」の形に「ネツァク」の力が既に結び付いているもの(の象徴)であると言えます。この形を作りそこに力を固定すると言う作業は像を魔術的象徴に化する(空っぽの形に命を吹き込む)仕組みと同じであると言えます。

― 魔術理論を作業別に考える ―

悪魔喚起術

悪魔(Spirit(Evil Spirit)、即ち、霊(悪魔))の喚起は悪魔(無意識の内容)を外在化させて従わせる術であると言えます。悪魔を「円環」の中(意識的な自分の領域、自我領域)ではなく外部に呼び出す(故に召喚ではなく本来は喚起と呼ばれるべきものです)と言う事は、自分(意識的自我)と悪魔とを切り離して別々の存在として扱うと言う事です。もし、悪魔を「円環」の中(自我との境界線(壁)の内側)に呼び出す(召喚する)ような事があれば、或は「円環」の中への侵入を許すような事があれば、自我の安全は全く保障出来なくなると言えます。それは悪魔と自分とが重なる事を意味し(悪魔と自我の直接接触)、非常に危険な状態であると言えるからです。悪魔と結び付いている(悪魔と呼ばれている)無意識の内容が無防備な自我を食い尽くして仕舞う可能性もあります。悪魔を呼び出す時は「円環」の外へと呼び出さなければいけないと言う事や、悪魔を呼び出す前に「円環」を補強する作業を行なう事の意味が分かるかと思います。また、堅固な(十分に発達した)「円環」(自我領域)を築けない(持たない)内は、即ち、「円環」が弱い内は、悪魔喚起を行わないようにと注意する意味も分かるかと思います。

悪魔を「円環」の外に呼び出した後、悪魔に対して何かを行なうように命令する事(悪魔は言わば象徴(意識で捉えた無意識の内容)ですので、この作業も象徴制御であると言えます)があるかと思います。これは照応する無意識の内容を自分の領域(自我領域)へと呼び込む事なく活性化する(働かせる)と言う意味です。無意識の影響は波紋となって意識へと上がって来ます。(場合によっては強く突き上げて来たりもするでしょうし(恐らく大きな悪魔)、境界線の壁(「円環」)が弱い時などには自我領域へと侵入して来る事もあるかと思われます。)それが術の作用です。無意識との直接的接触融合ではないところが召喚との違いです。『ソロモン王の小さな鍵』の悪魔喚起とその使役とがこれに相当します。ですが、悪魔を活性化する事自体には良い事は余りありませんので、このような喚起は行うべきではないと言えるでしょう。もし行う必要があるとすれば、それは悪魔が自分の意志に背いて勝手に活性化されている時です。この場合、悪魔を呼び出して(勿論、外に)悪魔を自分の配下に置いて暴れないようにと命令します。即ち、意識化して(制御出来る様にして)活動を(意識的)抑えさせるのです。自分の制御から離れなければ悪魔は暴れる事はなくなると言う訳です。そして、それを機に自分の制御下(意識的ではない制御下)に確りと置き(配下に置き)、今後、勝手に活動しないようにします(封じておきます)。(これが悪魔喚起の正しい目的であるように個人的には思います。)

「アブラメリンの術」では「聖なる守護天使」の知識と交渉とを得た後に悪魔を呼び出し、統治下に置くための作業を行いますが、これは無意識にある悪しき要素(「アブラメリンの術」では聖別された後に残ったもの)も意識化して自分と言うものの統括の元に置く必要があるからです。(悪しき要素も自分にとっては必要な統合要素であると言えます。)これをしておかなければ悪しき要素は勝手に暴れ出す可能性があります。(この辺りは前述の悪魔喚起の正しい目的に関して述べた事と同じです。)

タリズマンへの霊的エネルギーの注入

これは「タリズマン」と照応する心的内容を活性化すると言う事です。活性化された心的内容は意識領域への影響となり、これが「タリズマン」の作用となります。「タリズマン」は数箇月後に再チャージが必要とされている事がありますが、これは活性化した無意識が徐々に元の状態に戻って行くためです(個人的には保とうと思えば保てるところだとは思いますが)。

召喚作業

召喚は喚起とは逆に円環(自分の領域)の中に神様や天使(に相当する普遍的無意識の内容)を呼び込んで接触融合を試みる術(即ち、神様や天使と自分を重ねる術)です。一般的には(信頼出来る神格を召喚するものであり)無害であると言われていますが、自我が十分に発達する前に(そぐわない大きな力に)接触すると自我肥大に陥る可能性もあります。ですので、一般的に言って最初から高次の神格を召喚する事は危険であると言えます。段階を踏んで自分の成長と共に徐々に高い神格(より深く大きな塊)を召喚して行くようにと勧めているのはそのためです。

聖なる守護天使の知識と交渉

「聖なる守護天使」は「自己」元型と同一に見られる場合があります。「聖なる守護天使」が「自己」であるならば、「聖なる守護天使」の知識と交渉とを得ると言う事は「自己」(自分全体の中心)の周りを周回すると言う状態に似ているかと思います。


纏め ― 。以上のような考え方は飽く迄も1つの解釈の仕方によるものでしかありません。魔術の各作業については他の視点から語る(解釈を付ける)事も十分に可能なものです。他にも様々な魔術作業があるかと思いますが、取り敢えずはこの辺で終わりたいと思います。(時間が取れたら色々と付け足して行くかも知れません。)

― NOTE ―

一般的な人々に於ける魔術の定義()、魔術を「人間が不思議な力を使って不思議な現象を起こす事」とする事は、安易に、人間の理解を超えたところにある業が魔術であり、人間の手の届くところにある(積もりの?)業が科学であると言う図を作り出して仕舞います。これでは科学の光の当たらない闇の中が魔術の(魔術としての)居場所であり、闇が光に照らされた時には魔術の(魔術としての)居場所はなくなって仕舞う事になります。ですので、魔術師がこのような(科学を基準にしての)不思議(光の外)か不思議でない(光の内)かと言う事を基準にした定義を魔術に持たせる事はありません。そもそも、魔術師にとっては不思議である事が魔術を魔術としている訳ではありませんので、(科学から見て)不思議か不思議でないかと言った事は最初から問題にはなりません。魔術師から見てそのような事に論点を置く事は魔術を定義する上では全く意味のない事であると言えるかと思います。

( 恰かも一般的な人々の中に定着している定義であるかのように扱っていますが、実際にはこれは個人(自分)の中にある一般への勝手な印象、思い込みによって作り上げた空想上のものでしかありません。)

魔術師にとっては魔術が(科学から見て)不思議である必要は全くないので、例えば、良く分からない不思議な言葉(神様だの悪魔だの魔力だの)を使わずに魔術を定義すると、「人間が自然に備わっている力、仕組みを利用して望んだ現象(或は結果)を起こす(得る)事(起こそうと(得ようと)する試み)」と言ったようなものにもなる(定義出来る)かと思います。(魔術で用いられる力は、それが不思議であろうがなかろうが、自然に備わっている力、仕組みであり、魔術によって起こる現象も、それが不思議な事であろうがなかろうが、大抵は勝手に起こるものではなく、人間が目的を持って起こしているものですので、このようになります。)このように論点を一般的な人々のもの(不思議か不思議でないか)から魔術師側(不思議か如何かは関係ない)に少し寄せて見ると、一般的な人々の定義とは違い(魔術師に合わせて論点を変えたので違って見えるのは当然ですが…)、魔術も科学も同種の根を持ったものと感じられるのではないでしょうか。魔術師から見れば魔術も科学も、実践面に於いては、共に自然に備わっている力(神様の力、(人間寄りに言えば)神様が人間のために世界(宇宙)の中に密かに用意しておいてくれた力、仕組み…など、呼び方はどのようなものであっても構わないのですが…)を捕まえて利用するものであり、(実践面に於いては)多くの場合は望んだ現象を起こすために用いられているものとなります。見方によっては魔術と科学とは(対立するものではなく)兄弟のようにもなると言う事です。(カバラで言えば…、科学も魔術も共に「ホド」の領域にあり、共に「ネツァク」に力を求め、共に「マルクト」へと作用するものと言う事になります。)

ですが、一般的な人々の中での魔術は摩訶不思議なものであり、逆に科学は(分かっていない部分を内部に含んだまま使っていたとしても)理に適ったものと言った感覚を持っているのでしょうから、不思議か不思議でないかを1つの基準として魔術を定義する事も仕方がない事なのかも知れません。

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