元型(アーキタイプ)

ユングは、心の中には全人類に共通する普遍的象徴性を備えた一定の基本的な形式が存在すると考え、それを「元型(アーキタイプ)(archetype)」と名付けました。「元型」は「集合的無意識」を形成する要素とされます。神話的「イメージ」や「象徴」の源泉はここに求める事が出来ます。

「元型」は意識によって直接把握する事は出来ません。人が意識の領域で捉える事が出来るのは「元型」が意識に働き掛ける事により浮かび上がって来た「元型的イメージ(原始的心像)」であって、「元型」そのものではありません。(「元型」自体は一定の型ですが、)意識化された「元型的イメージ」は個体の意識的経験によって異なります。

「元型」の主なものには以下の様な種類があります。

  • シャドウ(影)(shadow)
  • グレートマザー(太母)(great mother)
  • ワイズオールドマン(老賢者)(wise old man)
  • アニマ・アニムス(anima anims)
  • ペルソナ(persona)
  • セルフ自己(self, selbst)

「元型」にはこれら以外にも「トリックスター(trickster)」や「永遠の少年(puer aeternus)」「英雄(hero)」などと言った様々なものがあります。「元型」の種類は理論的には無限にあると言えます。

それぞれの「元型」については以下のようになります。

シャドウ

受け入れ難い要素が無意識下に「抑圧」され、「元型」によって形作られたものを「シャドウ」と呼びます。「自我」の影、「自我」がそうある事を望まないもの、「自我」が否定する存在、生きられなかった自分だと言えます。「シャドウ」は無意識の浅いところにある「個人的無意識」の内容でありながら、「集合的無意識」の「元型」的内容と深く関わっているため個人的な側面と、普遍的な側面の両方を持っていると考えられます。

「個人的無意識」の領域における「シャドウ」は上記のように意識から外された「自我」の影であり、「自我」に応じて出来るものだと言えます。それに対して「普遍的無意識」の領域での「シャドウ」は、普遍的な悪のイメージであり、先天的に備わっているものだと言えます。

「シャドウ」は(「アニマ・アニムス」や「コンプレックス」と同様に)無意識的に外界の対象へと「投影(projection)」されている事があります。「シャドウ」の「投影」が行われた場合は、その対象に対し否定的な感情を抱くようになります。この「シャドウ」の「投影」は「自我」が(無意識的に)行う防衛の一つだと言えます。即ち、客体の中に悪を作り出す事によって、自分の中に存在している自分が触れたくない悪の肩代わりを(客体に)して貰っている訳です。

ユングは「自我」の発達のためには「投影」の引き戻し、「シャドウ」の認識、「シャドウ」との対決、そして意識への統合が必要であるとしています。

グレードマザー

全人類に見る事の出来る「大いなる母」、母なるもののイメージの源です。生み、育む、慈しみ深い母である側面と共に、全て(「自我」)を飲み込んで仕舞う否定的な側面を持っています。

ワイズオールドマン

父性的な働きと知恵の働きを持っています。「自我」が方向を見失ったときに厳しく叱責すると言った権威的で威圧的な面もあります。また、公平で厳正であり、切断する力を有します。

アニマ・アニムス

心の中に住む異性像です。男性の内なる女性像(元型的イメージ)を「アニマ」、女性の内なる男性像(元型的イメージ)を「アニムス」と呼びます。「アニマ」「アニムス」は「個人的無意識」の比較的浅い(意識領域に近い)領域にあり、「集合的無意識」の領域に属する「元型」そのもの(即ち、男性が受け継ぐ普遍的女性像、女性が受け継ぐ普遍的男性像)の影響と、個人的経験の積み重ねとによって作られます。共に「自我」と内界とを仲介する働きを持つため(「自我」と外界とを仲介する)「ペルソナ」と「対立するもの」だと言えます。

「アニマ」「アニムス」は段階を踏んで変遷して行くものとされています(以下)。

「アニマ」の段階

「アニマ」の段階は生物的な段階、ロマンチックな段階、霊的な段階、叡智の段階の4つに分けられます。「アニマ」の属性は「エロス : Eros」です。

生物学的な段階

精神性ではなく肉体性が示されます。性、生殖を連想させる女性像がこれに当たります。「アニマ」がこの段階にある人は無意識のうちに女性に対し(精神性ではなく)肉体性を求めます。

ロマンティックな段階

女性の人格が示されます。「アニマ」がこの段階にある人は女性を一人の人格として対象化します。恋愛感情を生み出す元となります。

聖女の(霊的な、精神的な)段階

女性らしい美しさ、清らかさ、温かさが示されます。聖なる女性像がこれに当たります。

叡智の段階

叡智を持った(人間的ではなく)神的な女性像が示されます。女性性は強調されず、中性的、両性的であり、当然ながら性的な魅力は持ち合わせていません。「セルフ」に近いイメージです。神々しさと叡智を持った女性、神の領域に至った女性がこれに当たります。

「アニムス」の段階は、力の段階、行為の段階、言葉の段階、意味の段階の4つに分けられます。「アニムス」の属性は「ロゴス : Logos」です。

(「アニムス」の段階はユングではなく、彼の妻、エンマに因るものです。)

力の段階

肉体的強さを持った男性像が示されます。精神性は求められていません。

行為の段階

強い意志と目的を持った、勇ましく、行動力のある男性像が示されます。力の段階に比べ精神性が加えられています。

言葉の段階

論理的、合理的、知的な男性像が示されます。精神性はより増加し、肉体性はより減少します。

意味の段階

統合し、完成された男性像が示されます。ロゴス。「セルフ」に近いイメージです。物事についてだけではなく、そこにある意味、価値、意義、素晴らしさなどを教えてくれる男性がこれに当たります。

ペルソナ

個体の最も外側にあり心全体を覆う仮面的な機能を「ペルソナ」と呼びます。外的人格、真実の自分とは別の自分であると言えます。「ペルソナ」は「自我」を剥き出しのまま外界へと晒さないためのものです。個体は適切な「ペルソナ」を付けて外界と接する事により「自我」を外界から守りながらも円滑な社会的活動を行えるようになります。「ペルソナ」は、個体のために働く、個体と社会的集合体との妥協(上手く機能していない場合は除く)だと言えます。

通常、人は幾つかの「ペルソナ」を持ち、それを使い分けています。ですが「ペルソナ」を1つしか使えない状態の人や、また、「ペルソナ」と「自我」が「同一化」してしまった状態(即ち、仮面が外せなくなってしまった状態)の人も世の中にはいます。「ペルソナ」の「同一化」は内界へと目を向ける事の妨げとなるだけではなく、病理の危険性を含んでいます。「ペルソナ」は「自我」と外界とを仲介するため(「自我」と内界とを仲介する)「アニマ・アニムス」と「対立するもの」だと言えます。

セルフ(自己)

心の統一された全体像を司る「元型」です。人の心の内なる統合原理としての働きを持ちます。「セルフ」は心(意識、無意識を含めた人格)の全体性の中心であり、それと同時に、意識と無意識を包括すべく全体を囲むもの(即ち、全体性そのものを表象する「元型」)でもあります(これに対して「自我」は意識の中心でしかありません)。ユングは「セルフ」のイメージを「曼陀羅(mandala)」に見ました。「セルフ」は(「自我」に対してなのか)個我、大我などと呼ばれる事もあります。

「セルフ」は「個性化過程」に於いて非常に重要な存在だと言えます。

(「個性化(individuation)」とは、「シャドウ」や「対立するもの(opposites)」の統合、「アニマ・アニムス」の発達、「自己」との接触などを経て人格を統合し、人が(自身)全体として生きて行けるようになる事を言います。)

「個性化過程」を進み、高次の全体性、大きな統合へと向かうには「自我」と「セルフ」が向き合い、対話し、協力して行く事が必要不可欠だと考えられているためです。

(但し、「個性化過程」などでの「セルフ」との接触には「自我肥大(自我膨張)(ego inflation)」や抑鬱などの危険が付き纏います。「自我肥大」は「自我」と「自己」の中心が重なり合い、同一化した状態の事です。これにより「自我」は「無意識」の力を自分の力だと意識して仕舞うようになります。「自我肥大」を起こさずに「個性化過程」を進むには「自我」の強さが求められます。)

心が大きく均衡を失った状況に陥ると、「セルフ」は(補償的に)意識へと向けて様々な「元型的イメージ」を送り込み、偏った「自我」を触発し、意識を発展させ、心の全体性を回復させようとします。「セルフ」には人の心を安定へと導く働きが含まれています。上にあって統合を超越的に促す存在です。

「セルフ」は心全体を見渡す者であり、その心全体を調整する者であると言えます。また、心の統一像であり、あるべき姿、行くべき道を示す者であり、心を統一体へと導こうと働きかける先導者であると言えます。

ユングのこの「自己」や「個性化」と言った考えはグノーシス主義の影響によるところが大きいのではないかと思われます。推測ですが、グノーシス派の言うところの「内なる神性」「光の種子」「プネウマ(pneuma)」と言ったものが「セルフ」と言う考えを、そして、人々がその「内なる神性」に気付き求めて行く事で救済され、最終的には「プレローマ」の統一、全体性の回復へ至ると言う物語が「個性化」「個性化過程」と言う考えを生む切っ掛けとなったのかも知れません。

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