儀式魔術の実践

以下、儀式魔術の開始から終了までを簡単に紹介しています。ここでは簡略化した骨格だけの紹介となっていますので、不足している部分はサイト内の情報で補うようにします。

儀式の開始から終了まで

円環作業

「円環」に入って蝋燭を灯します。

「五芒星の小追儺儀礼」を行ないます。

必要であれば「六芒星の小追儺儀礼」を行ないます。

「生まれ無き者の儀礼」を行ないます(任意)。

召喚作業

儀式の目的を高らかに宣言し、求める神(神格)の召喚(呼び入れ)に入ります(以下)。

香を焚き、自分が求める神を召喚するための呪文を唱えて行きます。

術者は自身の内、或は(自身の身体を覆うように)自身の外()に自分が求める神の姿を強く(生きた象徴となる様に)描き出して行きます。

( この辺りの手法には様々なものがある事と思いますが、初心者の場合は自身の外部に重なるように(自身と(視覚的に)重なるように)神格の姿を視覚化し、そこへ天から神を降ろし(※※)、或は降ろしながら(ここでは「天から神を下降させる」と言った外的な表現を用いていますが、内的に言えば「奥底から上昇させる」と言ったような表現になるかと思います。但し、これも心理的には「上から降ろす」とも変わりないので、そのようなイメージで行っても構いません)、その外在化した神格像を自らが纏うようにして行き神格との一体化を試みる手法、即ち、視覚化、能動的想像によって外部に作り出した神像との外的な(視覚的な)重なりから心の一体化を導く方法が最も簡単であるように感じます。(能動的想像はその像に照応する無意識の内容(力、神格)を活発化させ、意識領域へと上昇させます)特に初めて召喚する神格の場合はこの手法が良いと思います。

(※※ この能動的想像によって外部へと描き出した神の像はそれと照応する力(神格)をこちら(意識領域)へと呼び寄せ上昇させる(導く)ための形であり、そして呼び込んだ力を留めておくための容器でもあります。力の流れ込んでいる形はただの形ではなく術者にとっての生きた象徴となります。この生きた象徴は術者の集中の焦点であり、自身の目指す姿であり、自らをそこへと導くための目印でもあります。神と自分との待ち合わせ場所のようなものと言えるのではないかと思います。術者は神を呼び、神へと向い、接触を遂げます。)

意識をその神のみへと集中させて行き、自分の意識と神とが接触した状態が遣って来る事を熱望しながら、呪文を何度も繰り返し唱え、自身を祈りで燃え上がらせます。

(即ち、対象を呼び求めながら、その1つの対象(目的)のみへと向けて自分の(意識の)中にある不要な要素(対象に対する不純物)を滅し(自身を(ここでは祈り(情熱、生命力、火、熱)によって)精錬、純化し)、対象のみへとただひたすら集中して行く事、ただ一つの目的(対象)のみへと向けて自身を捧げる試み(火による聖別)です。)

精神を高揚させて(自我を落として)行くとある地点で神との接触が起こります。神の大いなる力が意識に湧き上がって(流れ込んで)来て、それと同時に意識の広がりが生まれす。更には自分の周り(「円環」内)にも神が確かにあると言う感覚が引き起こります。神との接触を果たしたら、その状態(神様と絡み合った状態)を強く固定するように想像します。(可能ならばその状態で自我を元の領域へと(可能な限り)引き戻すように試みます。)

神の力が自身の内に(そして「円環」の中に)実感を持った存在としてあれば召喚は成功と言えるでしょう。次の目的を果たす段階に移ります。

目的を果たす

目的を果たします(以下)。

その状態でその力を使って望むところを行います。

或いは、喚起したい眷属の霊がいるのであれば、召喚した神の名の下にその者を「円環」の外へと喚起し、命令を下します。

「魔術道具」の「聖別」や「タリズマン」の「充填(聖別)」であれば、対象物へと神の力を注ぐようにします。タリズマンへは眷属の霊の力を充填する事も出来るでしょう。

解放

全ての霊的存在を解放します(以下)。

召喚した神格に感謝を述べて退去させます。そして全ての霊に退去を命じます。以下は一例です。

"我はここに、この儀式によって拘束されている全ての霊を解放する。汝らの場所、住処へと静かに退去せよ。そして、YEHESHUAH YEHOVASHAH(yuh-hesh-you-ah yuh-hoh-vah-shah) の祝福のあらん事を。"

場に束縛している全ての霊の解放、元の場所への平和的な退去、霊への感謝が述べられていれば別の文言でも構いません。また、それを骨格にして色々肉付けしても構いません。

終了作業

「五芒星の小追儺儀礼」を行ないます。

後片付けをして作業を終了します。作業後は心身の回復を図るようにします。

(召喚内容は作業終了後に「魔術日記(魔術記録)」に書いておきましょう。)


以上が召喚作業に関する簡単な手順です。他に様々な工夫を凝らす事も可能ですので、慣れて来たら自分なりの工夫を加えたり、自分なりの構成をして行く事を試みると良いでしょう。

NOTE ― 1

「セフィロト」を(求める神格までの地図として)使い、照応する「セフィラ」まで辿り着いてから召喚作業を行なう手法もあります。こちらの(「セフィロト」によってある程度導く)方法の方が召喚作業が容易であるように感じます。

NOTE ― 2

召喚作業の際にアルコール、薬物、性行為などを用いる人もいますが…ここではそう言った事は一切勧めません。

NOTE ― 3

神との接触の少し後、通常は(時間的、空間的感覚が麻痺していたとしても)意識的自我及び身体の制御は(程度に差はあれど)残る状態にあります。しかし、恐らくこれは召喚する神が術者の意識の発達の程度に見合ったものである場合、神格とそれを受け入れる器(自分)との格差が大きくない場合(その上で意図的に接触を自身の限界地点へと持って行くような試みを行わない場合)での事であると思われます。

これがもし術者の自我が(思うよりも)弱く、神格の格が自分に見合わずに高いような場合、神との接触地点が術者の下降(或は上昇(言葉自体はどちらでも良い))する事の出来る限界地点(或は限界地点付近)であったような場合などには、目的の神格との接触を果たす事が出来たとして()、適切な神格を適切に召喚した時とは異なった状態、自我が極度に薄れ、身体の意識的制御が大きく失われると言った状態に陥って仕舞う可能性があります。以下はそのような場合においての(そのような状態に陥る前からの)目的の果たし方です。

( 自我が十分に確立されていない場合は心的内容が意識領域へと入り込んで来易いため、目的とした神格の格の高さに関係なく、目的以外のもの(心的内容)が意識領域へと入って来る事(事態)も十分に考えられます。自我が弱い場合には、余程の集中力と想像力がない限りは、目的の神格を外さずにきちんと呼び込む事は難しいと言えるかも知れません…。)

意識的制御が失われた場合

以下、意識的制御が失われた場合の目的の遂げ方です。

先ず、神との大きな接触が起こる瞬間(流れ込んで来た神の大いなる力よって自我が一気に飲み込まれ、このまま全てが押し流されて消失して仕舞うのではないかと感じた瞬間)に最初の目的を強く望み思い描くようにします。(この時、そしてこの後も決して恐怖したり混乱したりしてはいけません。)

その後、神の大波が引いて行きピークが去って、自我の回復の中で身体の制御が帰って来たならば、目的のための行動を(形式的に)行ない(省略可())、最後に退去の儀礼を行なうようにします。

作業中、体の制御が中々戻らず目的のための形式的な行動が行なえない場合は、目的のために行なうべき行動を想像によって行なうようにします(省略可())。その後、(未だ体が自由にならない場合は)想像で退去の儀礼を行ない、体が自由になった後に、もう一度、肉体を使って退去の儀礼を行なうようにします。

作業中、意識から体の制御が外れたままの状態の中で目的のための行動が無意識的にきちんと目的に沿って行われる場合があります(酩酊状態でもきちんと自宅に帰れるかのように)。この場合、適切な行動によって目的を果たしたと言う自覚が意識的自我の回復後に残っているならば、意識的身体的に行う事は最後の退去の儀礼だけとなります。

そうではなく、意識的自我の回復後、それまでが完全な健忘状態であった場合は、そこで目的のための行動を(形式的に)行ってから退去の儀礼を行います。若しくは目的のための行動を行なわず()に退去の儀礼だけでも良いでしょう(この場合、後日、作業やその後の自身に対する瞑想を行う事を勧めます)。

( 目的は神との接触時に既に果たされており、行動は余り重要ではありません。)

最後に。個人的には、自我が神の力よって殆ど押し流されてしまったり…強く打ち砕かれたり…一時的であるにせよ意識領域(人間の座)の支配権を全て神に渡したしてしまったりすると言ったような召喚は(意図的にそれを行う人もいますし、場合によってはそれはそれで「あり」になるものだとは思いますが)、必要性や安全面の事を考えると意識の "stage" が低かったり経験的技術的初心者である内は(意図的であろうと偶発的であろうと)避けるべきところであろうと思います。意識の発達段階が低い者は大きな「神体験」を必要とするような状況は殆どないと思われますし(例え召喚を行って大きな「神体験」を得たとしても全くの無意味に終わる可能性や、逆に精神が危険(※※)に晒される可能性もあります)、自我が弱い者は必要以上に大きな「神体験」をする事自体が危険(※※)であると言えます。また、魔術的作業に不慣れであったり魔術的技術の未熟な者は、作業の安全性の確保が出来ているかや緊急時の対処の仕方が分かっているかなどの不安要素が多く、(意図的にしろ偶発的にしろ術によって大きな「神体験」へと至る事が困難なのですが、どちらにしても)そのような状態へと行き着く事はやはり危険であると思われます。上記は意図せずにそのような状態へと陥ってしまった場合を前提とし、その場合での目的の達成方法と対処の仕方について書いていますが、本来は作業を行う前に自分の限界を十分に見極め、そうならないように注意しなければならないところだろうと思います。(召喚作業に挑戦する前に先ずは自分自身を知るとこから始めましょう。)人間の座を明渡す召喚を行うとするのであれば、(大きな「神体験」に耐えられるだけの)強い自我が確立されていて、(大きな「神体験」を必要とする)理由がきちんとあり、魔術的準備や儀礼をきちんと行えるようになってからだろうと思います。(因みに、熟達者の場合の大きな「神体験」はそのまま「大きな神体験」と言っても良いものであり、そうでない者の場合の大きな「神体験」は「分不相応の神体験」と言い直せるかと思います。)

(※※ 例え魔術的諸準備が全てきちんと行われていて安全性が高められた状態であってもそうです。)

NOTE ― 4

ここでの召喚作業は低次神格の召喚を目的とし、ある程度の強さの自我を持った者が行なうと言う事を前提としてますので、こちらは対象外の話となりますが…より高次の神格を対象とした召喚において魔術作業の熟練者であり十分な自我の強さを持った者が意図的技術的に限界地点付近まで接触を遅らせたような場合も、「NOTE ― 3」で書いたような…自我が著しく低下したり、身体的な制御が大きく失われる…と言ったような状態へと導かれる場合があります。

「NOTE ― 3」では発達段階の低い者や魔術の経験的技術的初心者が召喚によって(意図的であっても偶発的であっても)そのような状態に陥る事は避けるべき事だと書きました。これは必要性と危険性とからの事であったのですが、しかし、こちらの場合は一概にそうとは言えません。必要性について言えば、ある程度の段階に達した者であれば場合よっては大きな「神体験」を必要とする(或は選択肢として考えなければならない)ような事もあるでしょうし()、また、安全性について言えば、自分の限界を確りと見極めてから(自分の程度に合わせて)より大きな「神体験」へと踏み込む分には、少なくとも未熟な者が不意に大きな「神体験」をして仕舞うよりは、危険度は少ないと言えるでしょう。それは熟達した者が意図的に行う "Overdose" のようなものであり、初心者の行う単に分量を見誤っただけの過剰摂取とは違うものだと言えます(無理に例えて見たものの…上手く例えられていないような気がします…)。

( 魔術師によっては人間の座を完全に明渡すような状態にまで持っていかないと術が成功したとは言えないと考える人もいますが…本当は目的や場合場合に合わせて、即ち、術者側の必要性の有無によって召喚の度合いは変わって来るものだと思います。)

因みに、目的の遂げ方は同じです。1つは最大接触時に遂げる方法です。最大接触が訪れた際に神に願いを届けます。場合(術者の段階、その時点での状態、状況などの様々な要素)によっては神格が一気に抜ける事(気が付けば抜けている事)も考えられるので、最大接触時に遂げられる類のものに関してはその機会を利用して目的を遂げると言うのも選択肢としてはあります。もう1つは自身の内に神格を留めた状態で遂げる方法です。神格を纏った状態で行う必要があるものに関してはこちらになります。意識が晴れた(或いは晴れさせた)後も自身の内に神格を大いに留められるのであれば(ありありと感じられる状態を保てるのであれば)、それからその状態を用いて目的を遂げるようにします。(接触する事自体が目的の場合はその時点で目的が達成されるので、それは除いています。)退去云々はどの場合も同じです。丁寧に行なうようにします。

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