個人的無意識と集合的無意識

ユングの考える無意識とフロイトの考える無意識とでは性質が大きく異なるものでした。また、フロイトは無意識を個人の領域に留めて考えていましたが、ユングはその「個人的無意識」の奥に「集合的無意識」の存在を見ていました。以下、無意識に対するユングとフロイトとの考え方の違いと、ユングが見出した「集合的無意識」について簡単に書いています。

フロイトの無意識とユングの無意識

フロイトは無意識を「自我」に迷惑を掛ける悪役的存在として扱っていました。これに対しユングは無意識には本来的潜在的に創造性があり、個々の人間や種のために機能する(しかし、それは道徳的に働くものに非ず、意識のためではなく、全体の均衡と取るために機能する)面を持つ存在であって、その働きは無意味ではなく、目的因(意味)が含まれるものであると考えました。フロイトではただの邪魔者であった無意識をユングは個体にとって有用な面があると定義し直したのです。例えば無意識の起こす意識への干渉(反発)に対して、フロイトはそれを自分(無意識)が押さえ付けられた事に対する意識への復讐行為であるとしましたが、ユングは、無意識が心の不均衡(意識と無意識の対立が進んだ)状態を知らせようとしている、言わば無意識から意識への警告であり、それは無意識が意識と無意識の均衡を保とうとしているために起こると考えたのです。

個人的無意識と集合的無意識

更に、フロイトが無意識を個人の領域に留めていたのに対し、ユングは個人の領域である無意識「個人的無意識(personal unconscious)」の更に奥に「集合的無意識(collective unconscious)」があると考えました。(これは「普遍的無意識」とも言われます。こちらの呼び名の方がそれの指し示すところが掴み易いのではないでしょうか。)「個人的無意識」は個々の経験と共に積み重ねられて行くものです。個人的な(通常我々が言うところの)「コンプレックス」はここに形成されます。それに対し「集合的無意識」は時間、空間、個人の壁を超え、人類(ある集団)に普遍的に備わっている無意識の領域であると言えます。即ち、ご先祖様から受け継いでいる無意識です(…語弊がある言い方かも知れません。時代に関係なく、同じ環境、歴史、文化などに属している分に於いては変わらず共通し続けている無意識です)。「元型」はここに属します。イメージや象徴の源泉となっています。

「集合的無意識」は幾つかの層として考える事が出来ます。それは家族に共通する領域から、血族、地域、国民、民族や文化圏、種族、原始の祖先達(人類)、一般的な動物祖先(動物)に共通する領域まであり、奥に進むに連れてより沢山の人間と共通する大きな領域となって行きます。最も深い部分は全生命共通のものと言う事になります。国民的な「コンプレックス」や民族的な「コンプレックス」などが形成されるのはこの「集合的無意識」の領域です。


この「集合的無意識(普遍的無意識)」と言う考えはユングの大きな特徴です。個人的には、ここでユングはフロイトを置き去りにしているように感じます。

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