超自然現象とユング

ユングのオカルトに対する考え方を簡単に見て行きたいと思います。

本棚の大きな音(怪音現象)

ユングがフロイトに対して超心理現象(オカルト)に関する話を持ち掛けていた時、(ユングの家の)書斎の本棚から大きな音が2度に渡り聞こえると言う出来事が起こりました。この時、ユングはフロイトが自分の(オカルト)話を全く受け付けない事に対し内心で腹を立てていたのですが、ユングはこの怪音現象をその自分の怒りの心が外在化した事によって起きたものであると考えました。

ユングはこれ以外の怪音、幻臭などの事例についても心の外在化現象であると説明する事がありました。勿論、あらゆる霊的現象が外在化で説明出来るとは思っていなかったようです。…と言うよりもそもそもこの怪音現象も…それなのか如何か…。

霊と霊の憑依(心霊現象)

ユングは心理的側面から…霊とは、「自我」と直接の結び付き(関連)を持たず、それ故に、「投影」体として現前した「(普遍的)無意識」の自律的「複合体」である…と考えました。

これは簡単に言ってしまえば、「普遍的無意識」の「複合体(コンプレックス)」が外的な姿を採って出現したものが霊であると言う事になります。この現前した霊は「自我」との結び付きを持っていないため、自身の心的内容であるにも係わらず、全くの客観的存在として、自分とは違う何か異質なものとして「自我」に認識されます。

ユングは霊の「憑依」について…常態では「自我」と結ばれてはいけない霊(「普遍的無意識」の「複合体」)が「自我」と結び付いた時に起きる病である…と考えました。意識へと侵入して来た霊は「自我」にとっては奇妙で不気味であると同時に魅惑的であると感じるものであり、どちらにしても「自我」は意識的となった霊によって脅かされるか、魅了されるか、抑止されるかして正常な意識活動を妨げられる事になります。

中世に見られる「悪魔憑き」の正体もこの「憑依」であり、強いエネルギーを蓄えた霊が自律性を持ったまま意識へと流れ込んで来て、「自我」を占有、或は支配してしまった事によるものであったと考えられます。そして「悪魔祓い」はその侵入した抑圧因(霊)を特定し、それを意識から取り除くための作業であったと考えられます。

(「普遍的無意識」の内容に対して有用な面もあると考えていたユングからすれば、これらはそれらの持つ消極的な一面でしかありません。)

占い

ユングは易や『タロット』と言った占いなどは「共時性」(即ち、非因果関係にあると考えられるものの間にある(共時的な)関係性)を知る手段であると考えていました。

錬金術

ユングは、錬金術に関する書物に書かれている内容は、実際の物質の変容過程を表現したものではなく、錬金術師達の体験した心の変遷過程を「象徴」的に記したものだと考えました。そして錬金術での対立物を心理学的な「対立するもの」、物質変遷の過程を人格の「個性化過程」、最終目的物質である「賢者の石」を統合された意識と無意識、心の完全な姿、「セルフ」の「象徴」であると考えたのです。

ユングの考えに従えば、錬金術師達は錬金術の作業(「賢者の石」を造り上げる過程)の中で、自分の行為対象に心の内なる過程を(無意識的に)「投影」し、物質の変容過程を通して「個性化」「大いなる全体性(「セルフ」)」へと至る過程(心の変容過程)を体験していたと言う事になります。確かに錬金術も「個性化」も「対立するもの」の葛藤状態を和解させ、統合を経て、最終目的へと至る事を目指していますが…。

錬金術に馴染みのない人は、「対立するもの」については『トートタロット』の「III. 女帝」「IV. 皇帝」のカードを、「対立するもの」の統合、「錬金術の結婚(聖婚(Hierosgamos))」の概念については、「VI. 恋人(兄弟)(結婚式)」「XIV. 技(結婚後)」のカードを思い起こすと多少は分かり易いかも知れません。(飽く迄も目安ですが…。)

UFO

ユングは、UFOとは(その時代の)不安を抱えた多くの人々の「集合的無意識」が、その不安を「補償」するために(人々の共通の空間)空へと描き出した(投影された)円(安定を示す図形、意識と無意識の均衡の「象徴」、「自己」のイメージ)であると(少なくとも心的側面からはそう捉える事が可能であると)考えました。ユングはUFOの物質的な側面(物質としてのUFO)に関してはかなり懐疑的だったようです()。

( ユングは後になって、少なくとも死ぬ少し前の段階に於いて、物質的なUFOを認めるようになっていたと言う話も残っています。)

神(神イメージ)

ユングは『旧約聖書』に見られる神の横暴の数々は女性性を欠いているための無知によるもの(ソフィアの不全)であると考えました。そして、この天上に於ける女性性の欠如は、無知が改善されて行き(ソフィアの想起)、キリスト(イエス)が捧げられた後も、相変わらず残ったままであると言います。これは神は未だに均衡を欠いた存在であると言う事です。(『旧約聖書』の神…慈悲や恩恵を与える者であり、横暴や破壊性を振るう者でもあったその神は、イエスの思想を切っ掛けに愛の神へとその性質をすり替えられ、後キリスト(イエス)では一者は三位一体と言う事にされましたが、そのように神の性質が変わったところで、神に於ける男性性は、依然、優位なままであり、増えた天上の席(神が持つ顔の一つ)に女性性が据えられる事もなく、女性性の欠如は続きました。(魔術で使うキリスト教的カバラでは深淵の上に於いて女性性を欠いていると言う事はありませんが、教会の堅苦しい解釈では神に於いて、天上に於いて、女性性は欠いたままでした。)しかし、ユングは1950年の「聖母被昇天(Assumption of the Virgin Mary)」、マリア(女性)が肉体(女性性)を持って天へと昇ったと認められた事で、キリスト教の極端に男性的な偏りは均衡の取れたものへと進むだろうとも考えました。(キリスト教では精神(男性的)を重んじる代わりに、物質、肉体(女性的)を軽視していましたし、教会は人々の心が天上に女性を求めている事(即ち、天上に女性性が認められない中、それでもマリアを(教会が認める範囲を超えて)崇めている事、天上に欠けた女性性を(無意識的にでも)マリアで補おうとしている事)を分かっていても、教会による女性に対する差別(女性を、誘惑され、誘惑する者であり、男性に比べて(月経もあり)不浄で不安定な者などとしていたと言う事)もあり、女性を女性として(公式には)天上に上げたくないと言う都合が長年続いていたのでしょう。(本来、神(イメージ)を作るのは人々が持つ心の内容なのですが…力があり、自分達の都合を通せる組織である教会は、その都合によって、人々が求める形を認めずに(人々の心に合わせた神の形、そうあるべき筈の神の形を認めずに)来たと言えます。)そして、神の性質が変わっても、天上に席が増えても、人々の心が求めても、神に於いては、天上に於いては女性性は欠けたままだったのが、この「聖母被昇天」によって、神が、天上が、やっと(天上の均衡、心の均衡を(無意識的にか)求めていた)人々の心の形に(完全ではないにしろ)適合するものになったと言えます。)ユングは神(神イメージ)はその時代時代の人々の心と共に(永久にして全能である(前提の)神ですら)変化して行くものだと考えていたようです。(世の神々に於けるそう言った変化は、過去を見れば、その形跡(人間の都合(心的、政治的、宗教的理由)や置かれた環境などの違い・変化による神の変化の跡)が幾つも見られます。ユングの神(『聖書』の神)も(ユングが感じたように)時代(その時代の人間の心)に合わせて変わる必要があったであろう中で、そのまま残ったものと、(その必要性に合わせて)変化したものとに分かれていますし。強い信仰心がある人間や、変化を認めたくない何らかの都合がある人間は変化を認め難い(或いは拒否する)と言う事もあるかと思いますが、そう言ったものがない人間からすれば、ユングが指摘するまでもなく、神がその時代時代の人々の心と共に変化するのは至極当然(即ち、その時代時代で変化する人々の意識の感覚と無意識の内容、意識の都合と無意識の都合、理性と無意識、それが絡み合った心が反映して変化するのは(神以外の物まで含め)当たり前)の事のように感じます。)ユングの目にはこの「聖母被昇天」もそう言った変化の兆し(人の心の求めに合わせて均衡の取れた形へと変わって行くであろう中での一歩)として映ったのでしょう。

ユングによれば、神が神人イエスとして地上へと遣って来たのは、道徳的に神(『旧約聖書』のあの神)よりも上に立ってしまった人間に神が追い付くためであり、それは自分(神)が神であり続けるため、即ち、自分自身(神自身)のためであって、別に人類の罪を贖いに遣って来た訳ではないと言う事になります。イエスが人間によって十字架に磔にされたのも神が人類に対して行なった不正に対する神側の贖罪であったとしています。このユングの「神が自分自身のためにこの世に降りて来る」と言う考えは(イエスを「救済される救済者」として考える)キリスト教グノーシス派の影響を大きく受けたもののように感じられます。(このような考察…イエスの地上への出張や磔刑(そして帰宅)に関する考察も、心理的出来事として扱っているものと思われるのですが、個人的にはここは納得出来る部分(同じ意見を持っていた部分)もあれば、やや違うように感じる部分もあります。心理的な部分で言えば、神(それに当たる無意識の内容)と人間(意識)との乖離が大きくなり、神が人間に追い付くためには(即ち、人に見放されないために、自身が神であり続けるために)自身が変わる必要があった事から、自らが意識との乖離を埋めるために変化を起こし、或いはそのような変化を求め(人に助けられる事を求め)、(自律的に働くそれが自ら)意識に流入したか、或いは意識に於いてそのような無意識への気付きが起こり、沈んでいる状態から意識がそれを引き上げたか、或いはどちらか一方ではなく、それらが絡み合いながら起こったか…いずれにしても、変化した無意識内容、或いは変化を求めた無意識内容と意識との接触が起こり、それによって双方の乖離を埋めるための動きが起こった…と言うよう事はあっても可笑しくはないと思います。意識が変化した無意識と接触したのであれば、それによって意識化が起こり、意識に変化が齎されたのでしょうし、意識が変化を求める無意識を知覚したのであれば、その意識によって無意識に必要な変化が為されたと言う事も考えられます。また、どちらか一方ではなく、それらが絡み合って働き、双方の乖離の解消へと向かう心的な動きが起こったと言う事も考えられるところです。こうなると神が人を変えたか、人が神を変えたか…と言うような話になります(これに関して個人的な答えは持っていません)。そして、心理上の出来事として語るのであれば、個人的にはこの辺りまでかと思います。それ以上の部分…イエスに関する出来事に関しては、当時の現実的な出来事(イエスや周囲の動きには人の心理が働いていますが、ここでは単に「起きた事そのもの」)をそのまま心理的な出来事として扱うのは難しいかと思います。ただ、それを後世の人々の内に構築された「心的内容の構成物」として捉える事、後世の人々の心の内に確立された心的出来事として捉える事は出来るのではないかと思います。(ユングは物質界の出来事と、心的出来事とをはっきり分けていない事(態々言わない事)も多いので、ユングがどの程度まで心的出来事として語っているのか(完全に心理的出来事として扱っているのか、そこまでのものではないのか)の判断は難しいところもあるのですが、個人的には、現実と心理…現実の反映による心の動きや、それによって作られる心の内容と、心理の反映によって起こる現実(に限らず、それが人の心の中に造られる物語であっても、その中)の動き(この場合、人の動きではなく、その結果として起こった「出来事」)とは、双方の繫がりや影響を考慮する必要は大いにあるとは思いますが、それをどこまでも無分別で扱うような事はしたくないところです。)但し、イエスの誕生も磔刑も、当時の出来事をそのまま心理的な出来事として扱うのではなく、後世の人々の中に起こった(築かれている)心理的出来事として語っているのであれば(この場合の心理的出来事は、心の中に築かれた現実と言うだけであり、現実に起こった出来事でなくても、例えば物語であっても何でも構わない)、例えば、イエスの磔刑が「神が人類に対して行なった不正に対する神側の贖罪」であると言うような解釈も可能になるとは思います。その場合、心的内容のそう言った事実(ユングが考える事実)を人々の意識は間違って知覚していると言う事になりますが…。)


ユングの考察は超自然的な事柄に対しても常に人間の心理的側面からのものでした。ユングの考えは飽く迄も「心理的側面から見てこう解釈する事が出来る」と言うものであり(ユングに接する上ではここは非常に大事なところです)、物理的な側面はまた別のお話…と言う事になります。

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